いま、昔流行った歌謡曲のカバーブーム。由紀さおりさんの「1969」の大ヒットは驚きでしたね。歌手の一青窈さんも「歌窈曲」というカバーアルバムを出しています。その彼女が東日本大震災の被災地を訪れ“歌の炊き出し”を行ったとき、会場でいちばん反響のあった歌が中島みゆきさんの「時代」だったと、ついこの間の新聞に出ていました。
そんな時代もあったねと
いつか話せる日がくるわ
あんな時代もあったねと
きっと笑って話せるわ
だから今日はくよくよしないで
今日の風に吹かれましょう
まわるまわるよ時代はまわる
歌の出だしは、
♪いまはこんなに悲しくて
歌はいつの時代も人の心を癒したり、勇気づけたりしてくれます。
連休後半の初日、5月3日は高校のクラス会でした。1969年に卒業してから43年。東日本大震災が起きたため、昨年5月に行うはずが1年延びたのです。
還暦(定年)を前にしてあった中学の同級会のときの何か微妙な空気とは違って、みんな定年を過ぎ、みな何か達成感のある、晴れ晴れとした顔をしていて、頑張って生きてきたよね、これからまた頑張ろう、頑張るぞ、という気持ちになった一日でした。
定刻2時間前、かつて通った駅(当時は電車通学とはいわず汽車通学と呼んでいた)のホームに降り立つ。いったい何年ぶりだろうか、思い出せない。よく見るとホームの反対側の景色は昔とあまり変わらない。
この日は全国的に大荒れの天気。目抜き通りは人っ子ひとりいない。地方の街はいずこもそう。
曲がっていた坂道もまっすぐになっていたり、 どこもかしこもかつての面影はない。ま、こちらの記憶も怪しい。
大通りを外れて、朝の“一服”に立ち寄っていた公園の広場は、東日本震災による仮設住宅が建っていて、この地域の被害の大きさの一端をうかがえます。
この辺りのベンチでたむろしていると、よく同じ汽車通学のクラスの女の子に「あ、いけないんだ」と言われたっけ。
階段を上り、小高い丘の上に着くとそこは戦国時代の二階堂氏の城跡、翠ヶ丘公園。この場所はほんとに好きだったなあ。
神社の軒先で雨宿りする。
松風さわぐ丘の上
古城よ独り何偲ぶ
三橋三智也の「古城」が自然と出てくる。昭和34年、8歳の時の歌だ。僕も古い。苦笑。
丘を下り、街中に向かう。
高校のあの頃、ブラバンの帰り、汽車通学のともだちと暗くなった道をよく歌って帰った。タイガースの「君だけを」「モナリザの微笑」などなど。ランチャーズの「真冬の帰り道」はいまも胸が痛い。歌詞とは真逆で、僕は女の子から見たら、青い純情な少年だっただろう。
吉田拓郎もまだいない、ニューミュージックでもない、ユーミンの「卒業写真」の歌もまだない、グループサウンズの時代だったのです。
蛇足。
クラス会会場近くの十念寺に寄ってみました。ここには芭蕉の句碑があります。
「風流のはじめや奥の田植歌」
昔はしゃれた句と思いましたが、いまはそうは思えない。
案内板に、マラソンの円谷幸吉選手のお墓があるというので、社務所の人に訊いて行ってみました。墓地の墓石のほとんどが1年経った今も倒壊したままです。そんな中で、黒々とした御影石の見事なお墓が立っていまして、それが円谷選手の眠るお墓でした。
彼のお葬式は高3の時。僕らは後輩ということで市民体育館での葬儀に参列しました。自衛隊音楽隊の演奏する葬送行進曲は荘厳でした。
中学3年の時、円谷選手は東京オリンピックの赤白のユニフォームを着て銅メダルを見せに僕らの学校にもやってきました。校庭の壇上に立った円谷選手の自衛隊の隊員らしい、きりっとした姿は目に焼き付いています。そして、あの国立競技場に2番目に入ってきた時の興奮。それがまさか、高校に行ってお葬式に参列するとは夢にも思いませんでした。
オリンピックイヤーの今年、偶然にもお墓にお参りして、そんな思い出が走馬燈のようによみがえってきました。
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